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今週は感情を揺さぶられるできごとがたくさんあった。
なんだろうなぁ。
いろんな感情が掻き立てられて、カレンダーを見ても1週間前があの日だったのかと違和感しか抱けない。
ここ最近はほとんど無かった感情の波(かなしみ、くやしさ、ふがいなさ、くるしみ)が押し寄せてきて、「あ、夏が来たんだな」と自分の感情の動きによって教えられた。
140字を記録する媒体にいくつか言葉を残していたので、そこからの抜粋で日記を書いていこう。
「最近何するにも、特に楽しいことしているときは、40歳とか50歳くらいになったら、このこと思い出すんだろうな〜って一々脳みそが考えている、、」
「この道を誰と、あんなことして話したんだな〜みたいなことをわざわざ脳みそに焼き付けようとしている感じ」 (15/07/2019)
こんなことをわざわざ意識した。
お友だちと何度か一緒に歩いている道がある。その人はほかの友達には流れていない唯一無二の空気が漂っていて、普段わたしこんなにおしゃべりだっけ?と思わされる程に、口が塞がらずに話続けてしまう。
ものの聞き出し方が独特で、でも話す側としてはとても心地よい。だから彼と話している時の空気感は温かくて気持ちがいいのだ。
いつもいろんな話をしている道をひとりで歩いていた時に、さっきの言葉が頭の中をほろほろと歩き出した。
ひとりでいる時に急に、アァ、あんなこと話したナァって。
別にそれがいいとか悪いとか懐かしいとか嫌だったとかそういう感想が大事なんじゃなくて、ただ、そこの場所にその人と自分がいたっていう、それだけ。それだけ思い起こして自分の中にしまっておくことが、なんだかとっても愛おしかった。
それからお仕事中に、これもまた書き残しておきたい心を動かすことがあった。
私にはお仕事でときどき顔を合わせる方がいる。簡単に言えばせっかちで言葉がきつい方だ。はじめの頃は特に苦手で、もうこちらがバリアーを作ってしまっていて、顔を合わせれば少し身体の調子が狂ってしまいそうなくらいの嫌悪感を抱いていた。
しかし、ある日突然その方の見たことのない表情を見たのだ。
それはまさかの今までの形相が信じられないほどの笑顔だった。
なぜその方がその日、笑顔を見せてくれたかというと、産休から復帰された方、Oさんと呼ぼう、と久々に顔を合わせたからだった。
その方がお店にいらして、Oさんがいるのがわかった瞬間、にっこりと笑顔になった。
いつもは無駄なことを口に出さないのに、Oさんとは天気の話から世間の小さな話、ご家族の話、ぺらぺらぺらぺらと口にされていた。
Oさんのとなりに立っていた私に対しても、ものすごく気さくにお話をしてくれた。
本当に楽しそうな表情で、なんというか、こんなに笑ってくださる方だったんだ、、という衝撃と感動と安堵とでこちらは勝手に鳥肌が立っていた。
今までの自分の思い込みを恨んだし、これまでのような抵抗感をもう今後、抱かなくていいんだなと思えた。
そして何より、この方の笑顔を引き出せるOさんのパワーの凄まじさを思い知った。
Oさんは普段から、全てを包み込むような優しさを持っていて、人見知りの私も出会って間もないからから心を開いていろんな話を聞いてもらっている。
仕事柄、お客様から信頼感を得るのって何よりも大事な業務のひとつで、そこに優れているOさんの語り口にはいつも憧れを抱いていた。
その漠然とした憧れが、この日のあの方の表情の変化を見て、はっきりとした目標に変わった。
Oさんのように、相手がどんな方であれ、安心して話をできるような、自然と笑顔になってしまうような、そういう側面を引き出すことができるようになりたい。
人の笑顔を引き出せる人間になること、下半期の新しい目標リストに追加をしておこう。
人から助けてもらえるできごとも色々あった。
駅ですっ転んだ隙に鍵も落としていて、一瞬パニックに陥ってしまったけれど、おばちゃんが係員さんに届けてくれたおかげで無事に紛失もしなかったこと。
なぜか電車に乗り込む時に自分の時間が一瞬止まって膝とかばんをドアに挟んでしまい驚いて何も動くことができなかったけど、目の前にいた複数の人たちが手を差し伸べてくれてドアを開いてくれたこと。
電車や駅の中に流れる空気がいつも恐怖でいっぱいだったけれど、優しい人々もそこにはいっぱいいるんだな、この地球、侮れないな、と思えた。
とかとか思った矢先に、やっぱり人間って恐ろしい人もいるもんだと思った事件が起きた。
アメリカで若いインスタグラマーの女の子が殺害され、その上加害者がその遺体写真をSNSに載せたという酷という言葉じゃ片付けられない事件が起きた。
それに大きなショックを受けていたら、帰り道に携帯を開いてまたも恐ろしい事件が起きたことを知らされた。
京都アニメーションのスタジオが放火され、多くの人の命が奪われた。
何から言ったらいいんだろう。
まずは多くの尊い命がこんなにも呆気なく奪われることの悲しさ、遣る瀬無さを感じた。
犯人がどういった動機でこんな酷悪な行為に踏み込もうとしたのかは、理解できないししたくもないけれど、ただ言えるのは許せない、ということ。
ただ、犯人を擁護するわけでは決してないけれど、犯人をそうさせてしまった社会はいかなるものだったのか。
以前にも強盗をしていたり、無職のようだったり、精神的に病を患っていたり、簡単にわかるのは、「生きづらい」を感じている類の人だったんだろう、決めつけはできないけれど。
その人がどうすれば、どんな社会だったら、こういう事件を起こさずに、もっと彼の良いところを活かして生きることができていたのだろうか。
今年起きている酷な事件の犯人に思いを馳せると、いつもこういうことを考えさせられる。
その人自身が周りとの不和や自分の特質な点にもう少し早く気づいていたら、もう少し何か工夫をしていたら。それだけで、こんなに傷つく人も出なかったはずだ。
もしかしたら、家庭環境が悪かっただとか、幼少期に友人から虐げられるようなことがあっただとか、どこかの地点でトラウマになるようなできごとがあっただとか、人それぞれいろんな要因があるだろうけど、何かそういう、その後の犯罪に繋がり得るこれまでの傷を少しでも癒えることができる環境が整っていれば、何かが変わっていたかもしれない。ほんの少しでも、最悪の事態を回避できていたかもしれない。
何を言おうと、奪われた命を取り返すことは決してできないし、彼らの家族の傷を拭うことだった決して、決してできることではない。
それに、もう起きてしまったことは、本当にやらせないけれど、もうどうすることもできない。
これからの社会が、具体的にはどんなものかはわからないけれど、少しでも生きづらさに思い悩む人が減って、心痛むような事件がなくなっていくことをただただ願う。
それから、この事件を機に、いかにアニメが日本文化のひとつとして誇らしく思うべきものかっていうことだったり、こんなにも多くの人の心を揺さぶる影響が大きいものだっていうことだったりを見せつけられた。
京都で起きた事件だけれど、すぐさま世界中に事件の内容は広まり、多くの人の胸を痛めたはずだ。
悲しい事件から知るのは本当に胸が締め付けられるようなことだけど、日本にはこんなにも外に向かって誇れて、数々の人から憧憬される文化がある。
今まで無関心だったアニメ、マンガの偉大さをこの事件のインパクトの大きさで知ることができた。
私自身はこの事件をきっかけに京アニを知ったくらいの人間だけれど、作品を見ることが少しでも応援の気持ちを示すことになるかなと思って、初めて『聲の形』を見た。これはまた、日を改めて感想を書いていきたい。
この作品を見たことで、思い切り涙を流し自分の感情のダムが崩壊した。そのせいで、少し心がしんどくなったり、余計なことを考えたり思い出したりもした。
私最近、感情が動かないように制御していたのかな?とも自問した。
それが良いことなのか、悪いことなのか、なんとも断言はできないけれど、きっと最近の私はそうだったのだ。
It’s okay to feel emotional and have ups and downs いまぱっと頭の中の私が喋ってた。
今週のできごとや感情の変化をつらつらつらつら書いてなんかまとまりもないけれど、おまけに急に頭の中が英語を話し出したりもしているけれど。
暑くなってきて、夏の嫌な思い出がぶり返してきたりして、台風が過ぎ去るまでは気圧の変化と続くから、秋を迎えるまでは決してイージーではないと思う。
でも、前向きに乗り越えていきたいし、逃げずにしっかりと向き合っていきたい、と、今は思える。
なんといったって暑さが落ち着くであろう9月からは楽しみなことがたくさん待っているから。
明後日はその楽しみが現実に近づく予定もあるし、明々後日にはその楽しみをより楽しくするために勝ち取りたいこともあるし。
がんばっていかなきゃ。進んで行かなきゃ。
ー『聲の形』感想
Later...
〜福田先生のレッスンのことを書く余地がなくなってしまいましたとさ〜